Saturday, September 24, 2005

完璧なまでのブレックファーストとバンシー*のリベンジ

クリスピーな朝日を浴びてテラスで朝食を取る。私のお気に入りのATOMIC Coffee Machine で作ったコーヒーをカップに注ぐ。白いOld Pyrexのコーヒーカップは妻のお気に入りで、ただのミルクグラスのコーヒーカップとソーサーなのだがシンプルなデザインと乳白色のガラスが光に当たり、注がれたコーヒーの色がうっすらと見えて優しい色合いにとけ込んでゆくのがいい。厚めにバターを塗ったフルーツ・ブレッドのトーストと不透明な厚手のガラスでできたレトロなオレンジ色のフルーツボウルにミックス・ナッツをいれたシリアルが今朝のメニューだ。気持ちのいいそよ風が、庭に咲くジャスミンの花の香りを運んでくると思わず青い空を見上げてしまう。ああ、なんて気持ちのいい朝なんだろう。これらを用意してくれた妻に感謝して幸せな時間を送る。

でも、アレさえなければパーフェクトなのに・・・・。

オーストラリアに来て15年以上になる。日本でいつも仕事と夜遊びに時間を費やしていた私はここへ来て孤独の喜びを知る。
周りを気にしないで生活できる事の喜び。訳の分からない流行についてゆく必要もない気楽さ。自分自身が確認できる安心があった。
環境が私をそうさせたのだと思う。

街の至る所に大きな樹が植えられている。ジャカランダという10月の半ばから藤色の花を桜の様に咲かせる樹があり、ユーカリがあり、プラタナスがあり、またモートンベイ・フィグと呼ばれる小さなイチジクの実を付ける樹があったりする。
ビーチに行けば、老若男女と問わず泳いでいたりジョギングしていたり日光浴を楽しんでいたりする。天上は高く地上は広く、自分の両腕を大きく伸ばしても周囲に迷惑をかけない環境がここにはある。

そう、ここは日本より少しばかり広い所なのだ。もちろん不自由を感じる所もたくさんある。だが、不満の原因のほとんどがこの国の習慣や他の国から来た人たちとの文化の違いなどからくるものだ。今朝の朝食の問題もそれに該当するのか。

隣に70歳位のイタリア人のおばあさんがいて、この界隈ではナンシーと呼ばれている。もう7年以上ここに住んでいるが彼女の本当の名前を知ったのはつい最近のことだ。ヴィンツァという名が本名らしいが、あまり、というよりまったく英語が出来ない彼女から聞いたので、もしかしたら姓がヴィンツァで名前がナンシーなのかもしれない。

眉毛の濃い坂上次郎似の雪だるまのような体型のおばあさんは、私達がここへ引っ越した時はすでにパートナーとは死別して一人暮らしをしていた。子供達にキットカットをくれたりイタリア語で陽気に話しかけてくる人懐っこい人物だ。ある日、甥っ子がイタリアからやって来て一緒に暮らす様になった。ナンシーと良く似た体型に口ひげをはやして、マリオがメガネをかけた風貌のアントニオは40半ばのおっさんで、調子が良くって幾分うさんくさく、あまり好きになれなかった。よく車で家路に向かう時など、二人がまるまるした体をピッタリとくっつけ、アントニオがナンシーの肩を抱きナンシーがアントニオにしなだれかかる様に寄り添いながら散歩している姿を見ると、親子でもここまでイチャつかないぞ!と下世話ながら想像したくない疑問がよぎったものだった。

だがアントニオが来てから4年程経ったある日、近所に住んでいたナンシーの義理のお兄さんが亡くなった。彼の家を売る事にしたのだが英語のしゃべれないナンシーはアントニオに義理の兄の土地の売却を任せる事にした。アントニオは「1ミリオンでさばいてやる!」と息巻いて目を輝かせていた。だが、ある日からアントニオの姿を見なくなる。

雨が降る夕方、子供達が家中でやかましく遊んでいると、誰かがドアをノックした。子供達の「だれかきたよ〜」の可愛らしい声を聞きつつ微笑ましく思いながらドアを開けると、ダークブルーのレインコートを着たナンシーが訳のわからないイタリア語をまくしたてながら家の中に入り込んで来た。よく聞くと雨が激しくなって来たので一人で家にいると怖い。親戚があと1時間程したら迎えに来るからそれまでいさせてほしい、というのだ。
アントニオの事を尋ねると、それまで悲しみに拉がれていた彼女の顔が一変し「He is BAD MAN!」を繰り返す。アントニオはナンシーの義理の兄の土地を高額で売って、そのお金をナンシーに渡す事なくイタリアへ持ち逃げしたのだ。あれほど信じていたのに裏切られた彼女の悲しみを思えばヒドい話だと思った。話を聞いた後ソファで寛いでもらって1時間後、ナンシーの親戚が来ると彼女は礼をいって出て行った。また雨がひどい時は来てもいいか?と頼むので、かまわないと伝えて。

1週間後、また雨が降り出した。ナンシーが来たので家に入ってもらってソファーで寛いでもらっていた。私は夕飯の料理で忙しかったので彼女にお茶とビスケットを差し出してキッチンへ戻る。子供達も遊び場のリビングをナンシーに占領されたので子供部屋へ移って行った。10分後、ナンシーの様子を見ると目をギラギラさせながら落ち着かないそぶりをみせている。「大丈夫?」と声をかけるとまた笑顔に戻って大丈夫だと答えた。変わってるよな〜、と呑気に思いながらもキッチンへ戻る。また10分してちらりとナンシーを見るといびきをかいて寝ている。

こんな時期が2ヶ月程続いた。だが、これは間違いだったと分かって来ていた。ナンシーの来訪はエスカレートしてゆき、雨が降る降らないに関わらず、週末の家族団らんの午後でもやって来る。大切な友達を招いてのパーティーの時もやって来る。子供達も次第に怖がりだす。落ち着かないのだ。いくら私や妻が「今日は、遠慮してくれ」と言っても「大丈夫、気にしなくていいからソファで座っているだけだから」と言う。我が家の部屋の構造がリビングとダイニングが筒抜け状なので私達が食事をしているとソファーに座る彼女が見える。何度かこっちに来て一緒に食べないか?とも誘ったのだが、彼女の遠慮なのかいらないと辞退する。
居心地のあまり良くないディナータイムが訪れる。

ある週末の夕食時、またドアがノックされた。子供達は一斉にビクリとした。妻も困った目を私に向けた。私は立ち上がりドアを開けるとナンシーがしゃべりながら入ろうとする。私は体で入り口を塞ぎながら「今日は遠慮してくれ」と断ったが、いつもの調子で「ソファーにいるだけだから」とニコニコして私の肩を押しのけようとする。頑に「申し訳ないが、妻も疲れているので、今日はかんべんしてほしい」と続けると、困った表情で「プリーズ、親戚が2時間後に来るからそれまでだけだから」と訴えて来る。そこまでして自分のことばかりを考える彼女に少し腹立たしさを感じて来た私は「悪いけど、今日は私も疲れているので又今度にしてくれ」とドアをしめながら告げた。そして彼女の顔が険しくなり「ひどい!」と憤慨し戻って行った。

イヤな気分がした。でも自分や家族が不愉快な思いをするくらいなら別に他人に悪く思われても構わないので言って良かった。

その後も彼女の訪問の数は激減したものの今でも続いている。

訪問が減った代わりに一つ増えた事がある。ナンシーの家には亡夫が作り上げた過去の美しさを忍ばせる前庭がある。ジャカランダの大樹を真ん中に立たせ、数本の灌木が目立つ。今もこの部屋の窓辺に座ると新芽を沢山つけたジャカランダの枝が見える。来月の満開時が楽しみだ。玄関の脇には赤ワインのような香りを放つ美しいポートワイン・マグノリアが植わっている。そのマグノリアから少し離れた所にはピンクの花を咲かせるサルスベリの樹がある。しかし、残念ながらガーデニングに感心のないナンシーは亡夫の形見に世話をかける事なく庭は荒れ果てている。それどころか、そんな綺麗な花々が咲くそれらの樹々の枝に最近スーパーの白いビニール袋のような物体が垂れ下がる様になった。最初はタオルかと気にしないでいたが、それらがナンシーのデカパンであることが判明し、心の大変狭い私は『やめてもらいたいモノだな』と切に切に思った。オーストラリアの役所では基本的に玄関や家の正面側には街の景観上の視点からブランケットであっても干してはならない決まりがある。地区によっては罰金の対象にもなるのだ。

もう文句を言う気力も失せる程の脱力感を与えるナンシーおばさんのデカパン攻撃に、完璧なまでの今朝の朝食も30パーセントほどの憂鬱を受けたのだった。

P.S. どうして30パーセントなのかって?本当は半減する程のダメージだけど20パーセントは私が大人になった分抑えができた事にしておく。

注)*アイルランドから伝わったオーストラリアの妖精(妖怪?)、深緑のマントを着て人の家に訪れては玄関ばたなどで泣き出す。バンシーが現れ泣く時とはその家に死人が出る事を意味すると言われている。ケイト・ブランシェットとレイフ・ファインズの映画『オスカー&ルシンダ』の原作者としても有名なピーター・ケアリーの小説『True History of The Kerry Gang』のなかでも山中のブッシュハウスに住むネッド・ケリーの家に現れる。