神を信じるのか?
昨日の怠さを引きづりながら過ごした今日の午前、キリスト教系の知り合いが、お話をしにやって来てくださった。
いつも、勧誘ではないけれど聖書の一節を話して下さる。
この世知辛いニュースばかりの時勢に彼らの話はちょっとした説法にも似て、いつも30分ちかくお話しする。
聖書や教典のたぐいは宗教によって解釈の違いがはっきり出るのだが、そこに書かれている教理の中には確かに共鳴できる内容がたくさんあり、自分のモラルの基準とさせてもらっているものも多々ある。
だけど、一つの宗教の真理だけに身を委ねる事は私は出来ない。
なぜなら絶対値を決めてしまい、その基準から全てを見る考え方がニガ手だからだ。
だからといって神の存在を否定したりしない。
そこまで傲慢な人間にはなりたくないのだ。
(私の意見に不愉快な思いをされたのならゴメンナサイ。でももしこのまま続きを読んでくださるのなら、あまりご立腹なさらないようにお願いします)
科学者や医学を学ぶ人の中で無神論者は多い。もちろんこのブログを読んでくださった中にもいらっしゃる事と思う。
だが、私は思う『優れたサイエンティストは、神または創造主の存在を認知できる』と。
学ぶ姿勢に傲慢さがあってはならない。学ぶ事以外においても謙虚さは新しい発見をする手がかりとなる。
人間に生まれたからには、多かれ少なかれ『祈る』という謙虚な行いをするくらいが丁度いいと思っている。(当然、世の中私の様に傲慢な人ばかりじゃないのは知っているけど)
ある朝、長男とジョギングをする時に息子が「早起きしたって何にも良い事無いよ〜。」と愚痴った事があった。
そして立て続けに「神様なんていないに決まってる」と言うので、私は「神様いないと思うのか?」問うた。
彼は、そんなものは人が作ったもので、実際にある訳ないと言うのだ。まあ9歳にしてみれば全うな意見だと思ったが、その後、息子は私に「神様を信じるのか?」と逆に問われたので、「いると思う」と答えた。
そして、こう続けた「それが神様なのか知らないけれど、おとうさんは時々『ありがたい』と心の底から思う時があるんだ。誰に対してありがたいと感謝の気持ちを言うでもないんだけど。そんな時に、この『ありがたい』という気持ちは、もしかしたら神様からのGift(頂き物)かもしれない。って思うんだよ』
息子とふたりでジョギングしながら朝日を浴びて、清々しい空気を吸い込むと何かしら自信が沸いて来る。そして過去の反省よりもこれからの希望に胸を熱くしている。
昔『家なき子』で、泣いてるレミにビタリスじいさんが言ってたなぁ。
「泣いてばかりいてどうする。前へ進めぢゃ。」
このテキストは2005年11月17日22:26にMixiに載せたものを改訂し転載しました。
<< Home