Monday, February 27, 2006

『老い』を語ろう。

今日、Aged Careを学んでいる妻とカフェで昼食を取った。
普段は、勤めが終わってから午後のコースを取っているが、今日は実習のため、朝早くから昼迄、近所の老人ホームを見学していたのだ。

久しぶりに二人だけで1時間半ばかりカフェで過ごした。

1週間程前、仕事用にと買った真新しい白いブラウスを着た元気な彼女を見て、少しばかりうれしい。

きっと青空が美しく、風も爽やかな天気のせいもあったろう。

私が、今日はどうだった?と聞くと、彼女はこんな話をしてくれた。

マネージャーや看護する方達など、いろいろな人がレクチャーしてくれたのだけど、そこで生活しているおばあさんが話してくれたのが一番印象に残ったと。

小柄で、もう80前後のおばあさんは補助脚をついてゆっくり教壇に着き、少し小さめな声で、この施設の素晴らしい事やスタッフや他の人たちとのコミュニケーションに満足している事等を話していった。

それから、

「私はここに来る迄に沢山の物を失わなくてはなりませんでした。それは、とても辛く、悲しいものであり、理解するのに時間のかかる事でした。

でも、私はそれをチャレンジだと決めてから、ここで楽しい生活過ごしています。

介護して頂くにあたって、皆さんにお伝えしたい事は、『私達は子供ではない』という事です。確かに私達は、皆さんよりもいろいろと物事が出来難くなって来ています。そのため、皆さんの助けも必要となる時があるのですが、だからといって私達を子供の様に扱ってもらっては困るのです。これは、子供に対しても同じことなのでしょうね。」

私達は、生まれると沢山の物や知識を周りから得て行く。物質はどんどん溜まって行き一つの部屋に納まりきれなくなる。知識や情報も記憶という頭の中のストアージにも納まりきれなくなってくる。

やがて、記憶や物だけでなくひとりで生きて行く為に必要な体力や肉体に置けるさまざまな機能がゆっくりと、時には突然低下したり、しなくなったりする。

年を取るという事は、今迄貯めて来た物を捨てたり、失ったりする事なのだ。

まだ与えられる事の方が多い若い人々は、老いに対する考え方が浅い。
それは構わないが、そこから傲慢さが出て来る場合がある。

傲慢とまでいかなくても、時代の違いや考え方の相違などからコミュニケーションのズレを感じて敬遠して行く。

今の社会、一体どこ迄弱者の事を考えているだろうか?
私達は、弱者に対して親や学校また社会から何を学んできたのだろう?

(大変失礼ながらここで弱者という言葉を出したのは、老人だけに限らず子供も含めて体力的や権力的な力の視点からの意味を指している。)

(病気や怪我等の障害を持つ等の特定の場合は例外とし)20代から成人として認められ60代の定年を迎えるまでを社会的に体力的にも優位な強者と捉えると、社会は、いや私達はどこまで弱者の立場に理解があるのだろう?

親、介護する人、または会社勤めをする人達にしても、上に立つ者の多くは常に自分のプライドや権威を振りかざしながら子供、パートナー、部下、患者、老人を見下し罵倒し、相手のプライドを傷つけるシチュエーションを作れる。

自分もやられてきたからそれが正しい、そうされる方が彼の為にいいからとか、いろいろと正論を出してみても一番分かっているのは、そういう傲慢な態度を取る者達自身なのだ。

彼女の「私達を子供の様に扱うのはやめてほしい、それは子供に対しても同じ事」という意見は、人として生まれた以上、持たねばならない存在意義を理解し相手を尊厳する謙虚な姿勢を互いに育んでゆくのに大変有効だと感じた。

つい自分勝手になりがちな社会に生きる私達、いや社会を離れた私達自身にとっても、しっかり心の中に止めておかねばならない大切なメッセージだ。

私は、まだ老いに対して語るには少し早い年齢かもしれないが、妻から聞いたこのおばあさんの話から、とても心にリアルに響くものを感じた。

老いとは、死に近づいている事も意味する。そして死に近づくとは、それだけ今生きている事の大切さを強く受け止めるチャンスが多い事も意味する。

人に対して尊厳を持つ者は、命を粗末に扱う事をしない。弱者をフォローする謙虚な気持ちはあっても、見下す事はしない。

だが、ぞんざいな扱いを受けて来た者、また扱いをして来た者は、死を恐れるか無理解ゆえに無感覚に陥る。己の肉体の衰退に感謝やいたわりの気持ちを持つよりも、恨めしさや不満、怒りばかりが募る。

人を自分を愛する事を、私達はしっかり学んできたのだろうか? しっかり愛を受け取ってきたのだろうか?

子育てを例にした時、親が子供のために時間をかけることなく、生活のためだと、仕事が忙しいからと、他者に預けっぱなしでいたり、料理も出来合いばかり与えて、ろくに会話することもないような状態にしていないだろうか?

夫婦ならばどうだろう?人生を親より長く共にして行かなくてはならないパートナーに対して、ぞんさいな言い方をしたり、裏切る様な行いをしていないか?お互いをしっかり認め合い、苦しい時も互いに助け合う事を出し惜しみしてはいないだろうか?

私達は、人として学ばなければならない基本的な事が沢山あるにもかかわらず、あまりにも知らなすぎる。

私達が求めるものと言えば、物質的な失わなければならないものばかりに捕われすぎていないだろうか。
失うのがとてもイヤなのに、死んでも失わずに永遠に得られる物がある事をしっかり知ろうとしない。

話してくれたおばあさんは、今でもチャレンジする心を忘れていない。
彼女は特別有名な人でも、リッチな人でも、名声や学位の高い識者でも思想家でも宗教家でもない。

私達と同じ様に、生まれ、子供時代を送り、恋を、結婚をし、家庭を持って、子供達を立派に育て、日々の生活を楽しみ、家族との別れを経験し、悲しみや苦悩を経験し、今、老人ホームで余生を迎えているのだ。

やがてここで死を迎える事になろうがだ。

そんな彼女がチャレンジしている。幾つになってもチャレンジする気持ちを忘れないでいる。

ああ、人とはなんて力強い生命なのだろう。

日々、失敗や恥、怒りに心を悩ませる私の弱い心に、この話はとても強く強く響き渡るものがあった。

最後におばあさんの話の中で印象深かったものをもうひとつ。

「今朝、朝食を取った後、車椅子に乗ったおじいさんが私の側に来て愚痴をこぼし始めました。「今朝起きたら右手が上手に動かせなくなっていたんだっ!昨日迄そんなことは無かったのに、まったくこの足といい、だんだんわしの言う事を聞いてくれん様になってくる」。苛立つ彼に私は「私が貴方にしてあげられる事が何かあるかしら?」と言いました。すると彼はうつむいてハグ(抱擁)してくれと言ったので、私は彼をハグしました。」

目の前の妻を見つめながら、私は話を聞いて泣いていた。