Monday, February 27, 2006

『老い』を語ろう。

今日、Aged Careを学んでいる妻とカフェで昼食を取った。
普段は、勤めが終わってから午後のコースを取っているが、今日は実習のため、朝早くから昼迄、近所の老人ホームを見学していたのだ。

久しぶりに二人だけで1時間半ばかりカフェで過ごした。

1週間程前、仕事用にと買った真新しい白いブラウスを着た元気な彼女を見て、少しばかりうれしい。

きっと青空が美しく、風も爽やかな天気のせいもあったろう。

私が、今日はどうだった?と聞くと、彼女はこんな話をしてくれた。

マネージャーや看護する方達など、いろいろな人がレクチャーしてくれたのだけど、そこで生活しているおばあさんが話してくれたのが一番印象に残ったと。

小柄で、もう80前後のおばあさんは補助脚をついてゆっくり教壇に着き、少し小さめな声で、この施設の素晴らしい事やスタッフや他の人たちとのコミュニケーションに満足している事等を話していった。

それから、

「私はここに来る迄に沢山の物を失わなくてはなりませんでした。それは、とても辛く、悲しいものであり、理解するのに時間のかかる事でした。

でも、私はそれをチャレンジだと決めてから、ここで楽しい生活過ごしています。

介護して頂くにあたって、皆さんにお伝えしたい事は、『私達は子供ではない』という事です。確かに私達は、皆さんよりもいろいろと物事が出来難くなって来ています。そのため、皆さんの助けも必要となる時があるのですが、だからといって私達を子供の様に扱ってもらっては困るのです。これは、子供に対しても同じことなのでしょうね。」

私達は、生まれると沢山の物や知識を周りから得て行く。物質はどんどん溜まって行き一つの部屋に納まりきれなくなる。知識や情報も記憶という頭の中のストアージにも納まりきれなくなってくる。

やがて、記憶や物だけでなくひとりで生きて行く為に必要な体力や肉体に置けるさまざまな機能がゆっくりと、時には突然低下したり、しなくなったりする。

年を取るという事は、今迄貯めて来た物を捨てたり、失ったりする事なのだ。

まだ与えられる事の方が多い若い人々は、老いに対する考え方が浅い。
それは構わないが、そこから傲慢さが出て来る場合がある。

傲慢とまでいかなくても、時代の違いや考え方の相違などからコミュニケーションのズレを感じて敬遠して行く。

今の社会、一体どこ迄弱者の事を考えているだろうか?
私達は、弱者に対して親や学校また社会から何を学んできたのだろう?

(大変失礼ながらここで弱者という言葉を出したのは、老人だけに限らず子供も含めて体力的や権力的な力の視点からの意味を指している。)

(病気や怪我等の障害を持つ等の特定の場合は例外とし)20代から成人として認められ60代の定年を迎えるまでを社会的に体力的にも優位な強者と捉えると、社会は、いや私達はどこまで弱者の立場に理解があるのだろう?

親、介護する人、または会社勤めをする人達にしても、上に立つ者の多くは常に自分のプライドや権威を振りかざしながら子供、パートナー、部下、患者、老人を見下し罵倒し、相手のプライドを傷つけるシチュエーションを作れる。

自分もやられてきたからそれが正しい、そうされる方が彼の為にいいからとか、いろいろと正論を出してみても一番分かっているのは、そういう傲慢な態度を取る者達自身なのだ。

彼女の「私達を子供の様に扱うのはやめてほしい、それは子供に対しても同じ事」という意見は、人として生まれた以上、持たねばならない存在意義を理解し相手を尊厳する謙虚な姿勢を互いに育んでゆくのに大変有効だと感じた。

つい自分勝手になりがちな社会に生きる私達、いや社会を離れた私達自身にとっても、しっかり心の中に止めておかねばならない大切なメッセージだ。

私は、まだ老いに対して語るには少し早い年齢かもしれないが、妻から聞いたこのおばあさんの話から、とても心にリアルに響くものを感じた。

老いとは、死に近づいている事も意味する。そして死に近づくとは、それだけ今生きている事の大切さを強く受け止めるチャンスが多い事も意味する。

人に対して尊厳を持つ者は、命を粗末に扱う事をしない。弱者をフォローする謙虚な気持ちはあっても、見下す事はしない。

だが、ぞんざいな扱いを受けて来た者、また扱いをして来た者は、死を恐れるか無理解ゆえに無感覚に陥る。己の肉体の衰退に感謝やいたわりの気持ちを持つよりも、恨めしさや不満、怒りばかりが募る。

人を自分を愛する事を、私達はしっかり学んできたのだろうか? しっかり愛を受け取ってきたのだろうか?

子育てを例にした時、親が子供のために時間をかけることなく、生活のためだと、仕事が忙しいからと、他者に預けっぱなしでいたり、料理も出来合いばかり与えて、ろくに会話することもないような状態にしていないだろうか?

夫婦ならばどうだろう?人生を親より長く共にして行かなくてはならないパートナーに対して、ぞんさいな言い方をしたり、裏切る様な行いをしていないか?お互いをしっかり認め合い、苦しい時も互いに助け合う事を出し惜しみしてはいないだろうか?

私達は、人として学ばなければならない基本的な事が沢山あるにもかかわらず、あまりにも知らなすぎる。

私達が求めるものと言えば、物質的な失わなければならないものばかりに捕われすぎていないだろうか。
失うのがとてもイヤなのに、死んでも失わずに永遠に得られる物がある事をしっかり知ろうとしない。

話してくれたおばあさんは、今でもチャレンジする心を忘れていない。
彼女は特別有名な人でも、リッチな人でも、名声や学位の高い識者でも思想家でも宗教家でもない。

私達と同じ様に、生まれ、子供時代を送り、恋を、結婚をし、家庭を持って、子供達を立派に育て、日々の生活を楽しみ、家族との別れを経験し、悲しみや苦悩を経験し、今、老人ホームで余生を迎えているのだ。

やがてここで死を迎える事になろうがだ。

そんな彼女がチャレンジしている。幾つになってもチャレンジする気持ちを忘れないでいる。

ああ、人とはなんて力強い生命なのだろう。

日々、失敗や恥、怒りに心を悩ませる私の弱い心に、この話はとても強く強く響き渡るものがあった。

最後におばあさんの話の中で印象深かったものをもうひとつ。

「今朝、朝食を取った後、車椅子に乗ったおじいさんが私の側に来て愚痴をこぼし始めました。「今朝起きたら右手が上手に動かせなくなっていたんだっ!昨日迄そんなことは無かったのに、まったくこの足といい、だんだんわしの言う事を聞いてくれん様になってくる」。苛立つ彼に私は「私が貴方にしてあげられる事が何かあるかしら?」と言いました。すると彼はうつむいてハグ(抱擁)してくれと言ったので、私は彼をハグしました。」

目の前の妻を見つめながら、私は話を聞いて泣いていた。

神を信じるのか?
















昨日の怠さを引きづりながら過ごした今日の午前、キリスト教系の知り合いが、お話をしにやって来てくださった。

いつも、勧誘ではないけれど聖書の一節を話して下さる。

この世知辛いニュースばかりの時勢に彼らの話はちょっとした説法にも似て、いつも30分ちかくお話しする。

聖書や教典のたぐいは宗教によって解釈の違いがはっきり出るのだが、そこに書かれている教理の中には確かに共鳴できる内容がたくさんあり、自分のモラルの基準とさせてもらっているものも多々ある。

だけど、一つの宗教の真理だけに身を委ねる事は私は出来ない。

なぜなら絶対値を決めてしまい、その基準から全てを見る考え方がニガ手だからだ。

だからといって神の存在を否定したりしない。

そこまで傲慢な人間にはなりたくないのだ。
(私の意見に不愉快な思いをされたのならゴメンナサイ。でももしこのまま続きを読んでくださるのなら、あまりご立腹なさらないようにお願いします)

科学者や医学を学ぶ人の中で無神論者は多い。もちろんこのブログを読んでくださった中にもいらっしゃる事と思う。

だが、私は思う『優れたサイエンティストは、神または創造主の存在を認知できる』と。

学ぶ姿勢に傲慢さがあってはならない。学ぶ事以外においても謙虚さは新しい発見をする手がかりとなる。

人間に生まれたからには、多かれ少なかれ『祈る』という謙虚な行いをするくらいが丁度いいと思っている。(当然、世の中私の様に傲慢な人ばかりじゃないのは知っているけど)

ある朝、長男とジョギングをする時に息子が「早起きしたって何にも良い事無いよ〜。」と愚痴った事があった。
そして立て続けに「神様なんていないに決まってる」と言うので、私は「神様いないと思うのか?」問うた。

彼は、そんなものは人が作ったもので、実際にある訳ないと言うのだ。まあ9歳にしてみれば全うな意見だと思ったが、その後、息子は私に「神様を信じるのか?」と逆に問われたので、「いると思う」と答えた。

そして、こう続けた「それが神様なのか知らないけれど、おとうさんは時々『ありがたい』と心の底から思う時があるんだ。誰に対してありがたいと感謝の気持ちを言うでもないんだけど。そんな時に、この『ありがたい』という気持ちは、もしかしたら神様からのGift(頂き物)かもしれない。って思うんだよ』

息子とふたりでジョギングしながら朝日を浴びて、清々しい空気を吸い込むと何かしら自信が沸いて来る。そして過去の反省よりもこれからの希望に胸を熱くしている。

昔『家なき子』で、泣いてるレミにビタリスじいさんが言ってたなぁ。

「泣いてばかりいてどうする。前へ進めぢゃ。」


このテキストは2005年11月17日22:26にMixiに載せたものを改訂し転載しました。

Monday, October 10, 2005

究極の幼稚園と涙の卒園式

もう10年近く前の話だが、会社に戻る途中街を歩いていると子供の泣き叫ぶ声が聞こえて来た。
ビル街にはとても不似合いな子供の泣き声は私の進む前方から聞こえて来る。見つけた声の主は、まだ1歳位のデイケアと呼ばれる託児所に預けられている男の子だった。なぜ、それほどまでに大きな声で泣いているのか?という疑問は、その子の前に立ち尽くす若い女性の姿で解決する。彼女はここの託児所の先生らしく胸に名札をつけていた。年齢は20代半ばだろうか?彼女は眉間にシワをよせて「泣くな」と彼を罵倒しているのだ。二人のあまりの激しいやりとりに他の先生がやって来たのだが、彼女は子供の躾をののしりながら、もう一人の先生に愚痴をこぼしている。これで落ち着くのかと思っていたら、聞き手はただ頷くだけで彼女に子供への対応をアドバイスすることもなく部屋へ入って行った。そして抱きかかえてあやされる事も無く、男の子は泣かされたまま放置されてしまったのだ。

また別の日に、こんな光景も見た。一番上の息子が最初に入った幼稚園での出来事。
お昼までのクラスだった息子を迎えに行った時、教室の風景を覗きながら息子のクラスへと足を運ばせていた。
隣の教室では廊下越しに、コンクリートの床の上にスポーツ・マットを敷き布団にして、薄いブランケットをかけてザコ寝をしている子供達の姿が見えた。それぞれ頭を向き合いながら寝ている子供達の間を歩く先生の姿。彼女は見下ろしながら左右の子供達の枕からはみ出た頭の位置などを足で巧みに直している。飽きれた私は当然、息子をそこに行かせるのはやめる事にした。

全くひどい有様を見せられて少しばかりこの国の未来に失望した。

だが、その後息子が行った幼稚園は今まで私自身も体験した事が無い程の素晴らしい幼稚園だった。おかげで3人の息子達を安心して通わす事が出来た。

前回のロスターの話でも出て来たこの幼稚園には、校長先生でもあるアネットという大変しっかりした先生がいる。彼女は、すでに成人となった3人の男の子のおかあさんだ。彼女を筆頭に3人のプロの先生と3人アシスタントの先生によって園内の子供達の面倒が見られている。3歳から5歳までの子供達を2つのクラスに分けて、それぞれ3人の先生が担当する。子供達は自由に絵を描いたりブロックで遊んだり、コスチュームを楽しんだりしながらクリエイティブを育くみ社会性を学んだりする。ケンカや寂しくなって泣いたりしている子供がいると、そばに行って抱きかかえてゆっくりと話を聞いてあげる。先生達は大声で怒る様な事は絶対にしないが、悪さをしたら当然それなりのお叱りは受けなければならない。

以前、とても行儀の悪い男の子がトイレでおしっこをしに行った。近くにいた女の子におしっこをかけるマネをした彼は、わざと便器のまわりにおしっこをぶちまけた。私もこれはちょっとひどいなと思ったが、これからどうなるのか黙って様子を見ていた。女の子は先生に告げ口に行くと即座にジュディーと言うつぶらな目をした貫禄あるお母さん先生が登場した。彼女は彼の仕出かした粗相を叱りつける事も無く、ニヤニヤしている男の子の前にしゃがみ込んで話しかけている。立ち上がるとバケツと雑巾を用意して「あなたが汚したこのトイレを綺麗にしなさいね」と有無をいわさない貫禄で言い渡しその場から去ってしまった。その後、しょげた顔をしながら悪ガキ君はバケツと雑巾でちゃんとトイレ掃除をしているのだ。

また、この幼稚園にはいろいろな身体的な障害をもつ子供達も一緒のクラスで扱っている。足が不自由な子供や筋萎縮症の子供等もリハビリをしながら他の子供達と一緒に学んだりお遊戯をしたりしているのだ(これは大変良い事だと思った。私が子供の頃は、そういうシステムは無くて、身体や行動等に相違が見られるだけで嫌悪や拒否感を抱いてしまい、長い間、彼らに対する対応に悩んで、大変自分自身にイヤな思いをした)。

だが、その子達にはもうひとりのジュディーという特別の先生がついている。彼女はいつも明るく笑顔がチャーミングで、しっかりとしたスタイルを小麦色の肌が包んでいた。そんな彼女から威勢の良さが感じられて、彼女に会うと少しばかり元気を分けてもらった様な気分になる。

普段は、とても優しく笑顔を絶やさない彼女だが、時折、真摯なまなざしで彼らの記録をポラロイドに収めたり動作を注意深く観察している。

かれこれ5年程前の事だが2年間とも息子と同じクラスだった筋萎縮症の男の子がいた。初めて見た時、彼は車椅子に乗っておかあさんと一緒にやって来た。足どころか手も満足に動かせない姿に他人の子供ながら不憫だと思った。

ジュディーは彼の先生となり、彼女とコミュニケーションを取りたがらない彼の面倒を根気強く見ていた。
1年経った頃になると彼は杖をついて歩ける様になり、子供を預けている他のお母さん達の間でも話題になった。
私はジュディーと彼の頑張りを賞賛し、その成長ぶりに感心した。そして引っ込み思案でコンプレックスもあった彼はみるみるうちに自信を持ち、他の子供達とも遊ぶ様になっていった。

そして2年目の卒園式の日。

私は卒園式など行きたくなかった。だが、仕事で行けない彼女の代わりに私は否応無しに行かねばならず、重い足取りで幼稚園へ出向いたのだ。
ゲートに着くとフェンスはカラフルなリボンで飾り付けられ、廊下は稚拙ながらも絵や折り紙などで綺麗に装飾されている。息子のクラスから音楽が聞こえてきた。もうすぐ子供達の最後のお遊戯が始るのだ。

子供の背丈程のクリスマスツリーが部屋の真ん中に置かれ、ツリーの前で子供達が一列に並んで歌を歌っている。息子も大きな口を開けて一生懸命歌っていた。2年前に比べると大きく成長したものだと少し感慨深くなった。

やがて、2〜3人ずつ子供達が前に出て来てクリスマスツリーの周りで歌いながらダンスする。それぞれが手に持った飾りをツリーにかけると周りに座って次の子供達の順番を待つ。息子の番が来ると赤と白のキャンディーケーンを持って歌いながら元気に踊っている。他の両親達も、とてもに楽しそうに子供達のパフォーマンスを見ていた。

息子の番が終わると次の子供達のグループの番が来た。元気よく踊りでた3人はそれぞれサンタやスターやベルの飾りを手に持ってツリーの周りをスキップしながら踊りだす。驚いた事に3人の中には障害のあった男の子もいた。まだ弱冠の不自然さは残るものの、その見事なまでの成長ぶりに目頭が熱くなり不覚にも涙が溢れ出ようとしていた。ハッと周りを見渡すと他の両親達も皆涙しているではないか。めいめいにハンカチを手にして頬を染めながら心から良かったと感動しているのだ。私は、さぞかし彼の両親もうれしい事だろうと思い彼らの方を見ると、ふたりは頬を紅くし肩を抱き寄せ、ハンカチで涙を拭う事すら惜しむ様にして我が子のパフォーマンスをじっと見つめていた。その後ろでジュディーも両手をしっかりと握りしめて祈る様に胸に置き笑顔で彼を見ていた。

ダンスが終わり、校長先生が今日のパフォーマンスの為に子供達が一生懸命練習して来た事を褒め讃えた後、私達は先生を始め素晴らしいパフォーマンスを見せてくれた子供達に拍手を送った。

私達の拍手が終わり、彼らがこのクラスにいる最後の時が来た。

先生が子供達に別れを告げながら綺麗なラッピングペーパーとリボンで包装された包みを渡している。受け取った子供達は、自分の親の元へ行き、その包みを渡している。息子も先生から貰って来ると、両手を伸ばして「ハイ、おとうさんへ」と私に包みをくれた。「ありがとう」といって手に持ったままでいると「今、開けても良いよ」という。それじゃあと包みを開けたら中から自画像と名前が描かれた表紙を付けた厚いファイルが現れた。ファイルの中には、この幼稚園で彼が過ごした時間がありありと伝わるクレヨンやちぎり絵などで描いた絵、筆記帳などの作品が成長の記録として納められていた。ミミズのような線からはじまり最後の方では立派な絵や文字になっている様には深い感動を覚えた。

ページをめくる度に目頭が熱くなるので、途中で閉じて「続きは家に帰ってからゆっくり見させてもらうよ」と言った。
しかしファイルの下に、もうひとつ小さな包みがある。私へのプレゼントだから今開けてご覧と言う我が子へ、「これも家へ帰ってから見る事にしよう」と答えてみたが、「他のおとうさんやおかあさんも開けてるよ」と促されたので開ける事にした。

綺麗な包装紙を開けると、自分で作ったと言うブルー地にピンクのハートや花、星や月の形をたくさん散りばめた写真フレームが出て来た。そしてフレームの中には、遊び親しんだ幼稚園の庭を背景にして可愛らしく微笑みかける彼の写真が納められていた。

屈託のない笑顔を見ている内に、私の息子がここでいかに自由に、そして大切な時を過ごしてきたのかが良くわかり、この2年間の歳月を息子達に費やしてくれた先生に感謝した。その刹那、息子と私の、さまざまな思いが胸いっぱいに溢れ出し、次第に目の前がにじんで色が混ざり合ってゆく。

「ダメだ!おとうさん泣いてしまうぞ。」泣いてしまっている自分に恥ずかしさを感じつつも息子にありがとうと言って抱きしめた。
ハンカチを取り出して笑いながら周りを見ると、私同様に我が子から写真を貰った両親達もやはり笑顔で泣いていた。

Friday, September 30, 2005

日帰りネバーランドのスリルとゴールディロックの顛末

子供を持つと、いろいろと新しい経験をする。そのレベルは悟りとまで感じるものからひらめき程度にいたるまで幅広い。

また、子供がいるからこそ久しぶりに行く様な場所もあったりする。これもなかなか粋なものなのだ(呑気な発言だが)。
そして、いままで経験した事が無い経験にも用意に出くわす。

例えばロスターと呼ばれる幼稚園のお手伝い。
良い年取ったムサいおやじが幼稚園へ行って息子と一緒に時間を過ごすのだ。いや息子だけでなくたくさんの可愛い子供達と一緒に過ごすのだ。
まさに嬉し恥ずかしの入園体験。気分はもうネバーランド。初めての時は一体何をすればいいのか頭の中が白くなり前日に何か隠し芸でも用意しなければと余計な心配をする。当日になって先生方に会うと、向こうも慣れたもので私の動揺ぶり察して「今日はお子さんと一緒にいてあげればいいのよ。なにか手伝ってほしい事があれば言うから。」と言ってくれる。
内心ホッとするものの、慣れない場所にでかい体を呆然と立たせている様は、まさに『でくの坊』なので一応いろいろ掲示板や子供の作品、はたまた園内の構造などをチェックして回る(スパイか?)。

見る物もなくなったので、助けを求める様にして息子のそばへ行き一緒に積み木遊びをしていると、他の子供達もやって来た。そのうち女の子もやってきて、いつのまにやら人気者(オモチャ)になっていた。男の子と一緒にレゴで遊んだり、女の子とはショッピングごっこで遊んでいるうちに本来の目的をすっかり忘れている。そんな頃合いを見計らってか、先生からお呼びがかかった。

これからモーニングティーの用意をするから冷蔵庫から飲み物をもってきてほしい、と頼まれる。
きっと先生達も、このお父さんはこのまま仕事もしないで子供と遊んで帰るに違いないと踏んだのかもしれない。

冷蔵庫から水で薄めたオレンジのコーディアルと、ミネラルウォーターの2種類のジャグをコップが人数分並んだトレーに置いて、子供達の所へ運んで行く。

子供達は外の木陰に並んだ小さな椅子に座って、おとなしくジュースやバナナ、ビスケットなどを頬張っている。中にはオリーブだけとかさやいんげんだけをパリパリ食べている子供もいる。(いつか詳しくお話するだろう。)

そんな彼らが愛らしく、ほのぼのと見つめながら最初の恥じらいもサヨウナラと気を大きくした私だったが、その後に大きな難関に遭遇する事になる。

モーニングティーも済んで、子供達はまた元気に外で遊びだした。そして30分経った後、子供達は先生に導かれてクラスルームに戻ってゆく。私も後について行き部屋に入るとドアが閉めらた。それから突然、陽気な音楽が部屋中に響き渡った。

ジャンジャンジャンジャン!「ハイ、大きく手を上に上げてぇ〜。」子供達と一緒に先生達も手を上に上げて踊りだす。にぎやかなメロディーと共に子供達も陽気に踊りだす。やさしかった先生達も、さっきまで子供と一緒になって遊びほうけていた私にお仕置きとばかりシカトして踊っている。子供達も、ほとんどサバト化(悪魔を信仰する異教徒の集まりが狂舞する様)して勝手気ままに踊りだす。完全に取り残された私は、このまま『でくの坊』と化すのか、またはプライドを捨てて彼らと一緒に踊らなくてはいけないのか?これこそがまさにキンダーガーデン・ロスターの最大の難関だったのだ。

こうなったら、踊ってやる!と根性を見せようと気合いを入れてみるも、ダラリと下がった両手からは指だけがかすかに参加するだけにとどまっていた。

約15分程のお遊戯の時間は、じっとりと油汗がにじんだ私に『でくの坊』ぶりを残酷なほど認識させてくれた。

極度の精神的疲労を感じながら次の攻撃?に固唾を飲んでいると先生は子供達を座らせて『お話の時間』に入った。
先生は日本でも馴染みのある『ゴールディーロックと熊さんたち』の絵本を持ってページを開いた。

先程までピリピリとしていた私に、安堵をもたらせてくれた『お話の時間』は、先生の語り上手で、あっという間に佳境へと進んで行った。

その時、ふと初めてゴールディーロックを読んだ子供の頃の疑問を思い出した。
さんざん熊の家を荒し回ったゴールディーロックと熊達はその後どうなったのか?
まるで芥川龍之介の『猿蟹合戦』でもあるまいし、昔話のその後などは読者のイメージに託すのが粋なのだろうが、このゴールディーロックだけは正直な所許せなかったのだ。
子供心に、あんな厚かましく恥知らずな女の子はいないと猛烈な嫌悪をいだいたのだった。
今となっては、そこまでの嫌悪はないが、この本は一体何を子供達に伝えたかったのだろうと、せなけいこの「ねないこだれた」の系列や「三匹のやぎのガラガラドン」を読んだ時と同じ様な無常感を感じていた。

先生が絵本を閉じゴールディーロックのお話も終わると、先生は子供達を見つめて質問をした。

「そのあと、ゴールディーロックはどうしたか知っていますか?」

あまりにも急所を突かれた思いに瞬きをした私は、子供達に先生の問いに答える間を与えず「続きあるんですか?」と首を突っ込んでしまった。
私の無礼をとがめる事無く先生は自信たっぷりな表情でうなずき、ゆっくりと話はじめるのだった。

『熊の家を荒らしたまま、迷ってしまった森へまた入り込んだゴールディロックは、なんとか家に戻る事ができました。ゴールディーロックの姿を見たおかあさんは、寝癖の付いた髪の毛と口の周りにポーリッジがへばりついているのを見て驚きます。一体何をしてきたのか?と娘に問いただすと、ゴールディロックが熊さんの家でした顛末を話しました。娘の失態に飽きれたおかあさんは、おとうさんを呼んでゴールディーロックと3人でくまさんの家へ行きます。くまさんの家を見つけた3人はドアを叩くと
大きなくまが現れて3人を中へ入れます。おかあさんはゴールディロックを前に出して、娘の失態を深く詫びまずが心優しいくまさんたちは「そんなに気にしなくてもいいですよ。ただちょっとビックリしましたけどね」とゴールディーロックの無作法を許します。しかし、ゴールディロックのおかあさんは「お詫びに、私にポーリッジを作らせてください。」と頼みます。ゴールディーロックのお母さんはポーリッジを作り、おとうさんは壊れた椅子を直し、ゴールディーロックはクシャクシャに寝崩したベッドをもう一度綺麗に直して、くまさん達と仲良くポーリッジを食べたのでした。』*

話を聞き終わると私は深いため息とともにいいしれぬ満足感に満たされた。まさに話の終わりを最後まで聞けたよろこびと、お決まりながらのハッピーエンドに安堵したのだ。ベタだけど。

こんな経験も子供を持ってから得た経験として新しい。

*本当はもっと子供向けのやさしい表現で話していたはずなのだが、英語だったので私的に訳させてもらった。

Saturday, September 24, 2005

完璧なまでのブレックファーストとバンシー*のリベンジ

クリスピーな朝日を浴びてテラスで朝食を取る。私のお気に入りのATOMIC Coffee Machine で作ったコーヒーをカップに注ぐ。白いOld Pyrexのコーヒーカップは妻のお気に入りで、ただのミルクグラスのコーヒーカップとソーサーなのだがシンプルなデザインと乳白色のガラスが光に当たり、注がれたコーヒーの色がうっすらと見えて優しい色合いにとけ込んでゆくのがいい。厚めにバターを塗ったフルーツ・ブレッドのトーストと不透明な厚手のガラスでできたレトロなオレンジ色のフルーツボウルにミックス・ナッツをいれたシリアルが今朝のメニューだ。気持ちのいいそよ風が、庭に咲くジャスミンの花の香りを運んでくると思わず青い空を見上げてしまう。ああ、なんて気持ちのいい朝なんだろう。これらを用意してくれた妻に感謝して幸せな時間を送る。

でも、アレさえなければパーフェクトなのに・・・・。

オーストラリアに来て15年以上になる。日本でいつも仕事と夜遊びに時間を費やしていた私はここへ来て孤独の喜びを知る。
周りを気にしないで生活できる事の喜び。訳の分からない流行についてゆく必要もない気楽さ。自分自身が確認できる安心があった。
環境が私をそうさせたのだと思う。

街の至る所に大きな樹が植えられている。ジャカランダという10月の半ばから藤色の花を桜の様に咲かせる樹があり、ユーカリがあり、プラタナスがあり、またモートンベイ・フィグと呼ばれる小さなイチジクの実を付ける樹があったりする。
ビーチに行けば、老若男女と問わず泳いでいたりジョギングしていたり日光浴を楽しんでいたりする。天上は高く地上は広く、自分の両腕を大きく伸ばしても周囲に迷惑をかけない環境がここにはある。

そう、ここは日本より少しばかり広い所なのだ。もちろん不自由を感じる所もたくさんある。だが、不満の原因のほとんどがこの国の習慣や他の国から来た人たちとの文化の違いなどからくるものだ。今朝の朝食の問題もそれに該当するのか。

隣に70歳位のイタリア人のおばあさんがいて、この界隈ではナンシーと呼ばれている。もう7年以上ここに住んでいるが彼女の本当の名前を知ったのはつい最近のことだ。ヴィンツァという名が本名らしいが、あまり、というよりまったく英語が出来ない彼女から聞いたので、もしかしたら姓がヴィンツァで名前がナンシーなのかもしれない。

眉毛の濃い坂上次郎似の雪だるまのような体型のおばあさんは、私達がここへ引っ越した時はすでにパートナーとは死別して一人暮らしをしていた。子供達にキットカットをくれたりイタリア語で陽気に話しかけてくる人懐っこい人物だ。ある日、甥っ子がイタリアからやって来て一緒に暮らす様になった。ナンシーと良く似た体型に口ひげをはやして、マリオがメガネをかけた風貌のアントニオは40半ばのおっさんで、調子が良くって幾分うさんくさく、あまり好きになれなかった。よく車で家路に向かう時など、二人がまるまるした体をピッタリとくっつけ、アントニオがナンシーの肩を抱きナンシーがアントニオにしなだれかかる様に寄り添いながら散歩している姿を見ると、親子でもここまでイチャつかないぞ!と下世話ながら想像したくない疑問がよぎったものだった。

だがアントニオが来てから4年程経ったある日、近所に住んでいたナンシーの義理のお兄さんが亡くなった。彼の家を売る事にしたのだが英語のしゃべれないナンシーはアントニオに義理の兄の土地の売却を任せる事にした。アントニオは「1ミリオンでさばいてやる!」と息巻いて目を輝かせていた。だが、ある日からアントニオの姿を見なくなる。

雨が降る夕方、子供達が家中でやかましく遊んでいると、誰かがドアをノックした。子供達の「だれかきたよ〜」の可愛らしい声を聞きつつ微笑ましく思いながらドアを開けると、ダークブルーのレインコートを着たナンシーが訳のわからないイタリア語をまくしたてながら家の中に入り込んで来た。よく聞くと雨が激しくなって来たので一人で家にいると怖い。親戚があと1時間程したら迎えに来るからそれまでいさせてほしい、というのだ。
アントニオの事を尋ねると、それまで悲しみに拉がれていた彼女の顔が一変し「He is BAD MAN!」を繰り返す。アントニオはナンシーの義理の兄の土地を高額で売って、そのお金をナンシーに渡す事なくイタリアへ持ち逃げしたのだ。あれほど信じていたのに裏切られた彼女の悲しみを思えばヒドい話だと思った。話を聞いた後ソファで寛いでもらって1時間後、ナンシーの親戚が来ると彼女は礼をいって出て行った。また雨がひどい時は来てもいいか?と頼むので、かまわないと伝えて。

1週間後、また雨が降り出した。ナンシーが来たので家に入ってもらってソファーで寛いでもらっていた。私は夕飯の料理で忙しかったので彼女にお茶とビスケットを差し出してキッチンへ戻る。子供達も遊び場のリビングをナンシーに占領されたので子供部屋へ移って行った。10分後、ナンシーの様子を見ると目をギラギラさせながら落ち着かないそぶりをみせている。「大丈夫?」と声をかけるとまた笑顔に戻って大丈夫だと答えた。変わってるよな〜、と呑気に思いながらもキッチンへ戻る。また10分してちらりとナンシーを見るといびきをかいて寝ている。

こんな時期が2ヶ月程続いた。だが、これは間違いだったと分かって来ていた。ナンシーの来訪はエスカレートしてゆき、雨が降る降らないに関わらず、週末の家族団らんの午後でもやって来る。大切な友達を招いてのパーティーの時もやって来る。子供達も次第に怖がりだす。落ち着かないのだ。いくら私や妻が「今日は、遠慮してくれ」と言っても「大丈夫、気にしなくていいからソファで座っているだけだから」と言う。我が家の部屋の構造がリビングとダイニングが筒抜け状なので私達が食事をしているとソファーに座る彼女が見える。何度かこっちに来て一緒に食べないか?とも誘ったのだが、彼女の遠慮なのかいらないと辞退する。
居心地のあまり良くないディナータイムが訪れる。

ある週末の夕食時、またドアがノックされた。子供達は一斉にビクリとした。妻も困った目を私に向けた。私は立ち上がりドアを開けるとナンシーがしゃべりながら入ろうとする。私は体で入り口を塞ぎながら「今日は遠慮してくれ」と断ったが、いつもの調子で「ソファーにいるだけだから」とニコニコして私の肩を押しのけようとする。頑に「申し訳ないが、妻も疲れているので、今日はかんべんしてほしい」と続けると、困った表情で「プリーズ、親戚が2時間後に来るからそれまでだけだから」と訴えて来る。そこまでして自分のことばかりを考える彼女に少し腹立たしさを感じて来た私は「悪いけど、今日は私も疲れているので又今度にしてくれ」とドアをしめながら告げた。そして彼女の顔が険しくなり「ひどい!」と憤慨し戻って行った。

イヤな気分がした。でも自分や家族が不愉快な思いをするくらいなら別に他人に悪く思われても構わないので言って良かった。

その後も彼女の訪問の数は激減したものの今でも続いている。

訪問が減った代わりに一つ増えた事がある。ナンシーの家には亡夫が作り上げた過去の美しさを忍ばせる前庭がある。ジャカランダの大樹を真ん中に立たせ、数本の灌木が目立つ。今もこの部屋の窓辺に座ると新芽を沢山つけたジャカランダの枝が見える。来月の満開時が楽しみだ。玄関の脇には赤ワインのような香りを放つ美しいポートワイン・マグノリアが植わっている。そのマグノリアから少し離れた所にはピンクの花を咲かせるサルスベリの樹がある。しかし、残念ながらガーデニングに感心のないナンシーは亡夫の形見に世話をかける事なく庭は荒れ果てている。それどころか、そんな綺麗な花々が咲くそれらの樹々の枝に最近スーパーの白いビニール袋のような物体が垂れ下がる様になった。最初はタオルかと気にしないでいたが、それらがナンシーのデカパンであることが判明し、心の大変狭い私は『やめてもらいたいモノだな』と切に切に思った。オーストラリアの役所では基本的に玄関や家の正面側には街の景観上の視点からブランケットであっても干してはならない決まりがある。地区によっては罰金の対象にもなるのだ。

もう文句を言う気力も失せる程の脱力感を与えるナンシーおばさんのデカパン攻撃に、完璧なまでの今朝の朝食も30パーセントほどの憂鬱を受けたのだった。

P.S. どうして30パーセントなのかって?本当は半減する程のダメージだけど20パーセントは私が大人になった分抑えができた事にしておく。

注)*アイルランドから伝わったオーストラリアの妖精(妖怪?)、深緑のマントを着て人の家に訪れては玄関ばたなどで泣き出す。バンシーが現れ泣く時とはその家に死人が出る事を意味すると言われている。ケイト・ブランシェットとレイフ・ファインズの映画『オスカー&ルシンダ』の原作者としても有名なピーター・ケアリーの小説『True History of The Kerry Gang』のなかでも山中のブッシュハウスに住むネッド・ケリーの家に現れる。